カント(Kant):理性の限界– 西洋哲学史と倫理学のキホン(74) –

カントによれば、それまでの哲学は、感覚できる自然や世界を超えた存在(実体)や抽象的な概念について理性の力のみで答えようとしてきたが、理性は本来こうした問いに答えることができないという。
それでは、なぜ人間は、こうした「形而上学的問い」に答えようとするのかといえば、人間には〝なぜ?〟と問う傾向が備わっているからである。
そこでカントは、〝理性は何をどこまで認識することができるのか?〟という問題意識のもと、理性の限界について探究していく。
その探究を記したのが、『純粋理性批判』である。

形而上学的問いには、〝神は存在するのか?〟〝世界は有限か?〟〝人間に自由はあるのか?〟などがある。
しかし、カントによれば、理性がこうした問いに答えようとすると、〝Yes〟〝No〟どちらの答えも導き出せてしまうのだという。

たとえば、〝世界は有限か?〟という問いについて見てみよう。
この問いについて、「世界は時間において始まりを持たない」と仮定した場合、それまでの時間の流れのなかのどの時点を取ってみても、無限の時間が流れ去っている。
無限というのは決して完結しないことであるが、現在においては、その時点で時間は完結している。
ということは、〝無限に流れ去る時間〟というのはありえないこととなり、〝世界は時間において始まりを持つ〟と結論づけられる。

一方、「世界は始まりを持つ」と仮定した場合、始まりの前には空虚しかなかったことになるはずだが、空虚から何かが生じるということはありえない。
とすれば、始まりの前には〝何か〟がなければならず、その〝何か〟の前にも〝別の何か〟がなければならない。
したがって、〝世界は(過去の時間という観点から)無限である〟と結論づけられる。

上記の問いは、相反する主張がどちらも成り立たない例だが、逆に、〝人間に自由はあるのか?〟という問いにおいては、相反する主張がどちらも成立してしまう。
このように、ある主張がもう一方の相反する主張を退(しりぞ)けることができず、どちらも成立する、あるいはどちらも成立しない状態となり、決着がつかないことを「アンチノミー」(二律背反)という。

カントは、このようにして、形而上学的問いについて理性のみで答えようとすると必ずアンチノミーの状態に陥ることを示した。
そして、形而上学的問いは理性が扱うべき問題ではなく、信仰の問題だとしたのである。

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