ドゥンス・スコトゥス(Duns Scotus):このもの性– 西洋哲学史と倫理学のキホン(53) –

次にドゥンス・スコトゥスが行なったのは、哲学の領域から閉め出されていた個物そのものについて考察することであった。

たとえば、アリストテレスの哲学においては、真の存在は個物だとされたが、そこで注目されたのは、個物そのものではなく、個物を構成している「形相」と「質料」、とりわけ「形相」であった(「アリストテレス:実体論」を参照)。
そのため、目の前にいる人の〝背後〟にある〝人間一般〟(人類)といった普遍的な概念が重視され、目の前にいる人そのもの=個物は哲学の領域から閉め出されてしまった。
つまり、個物は、たんに感覚によって認識されるだけの存在になり、知性によって認識される根拠を失ってしまっていたのである。
しかし、それでは、キリスト教において、それぞれの人間は神を認識しようとする一方、神は1人1人の人間を認識できないという困った事態になる。

これに対して、ドゥンス・スコトゥスは、個人や個物には、〝人間一般〟や〝○○一般〟といった「種」=普遍的な概念が備わっているだけでなく、それぞれの個人や個物を〝その人自体〟や〝その物自体〟にさせている普遍的な性質が備わっていると考えた。
たとえば、ソクラテスやプラトンのような個人としての人間には、人間(人類)という「種」=普遍的な概念が備わっているだけでなく、〝ソクラテス性〟や〝プラトン性〟とでも呼ぶことができるような普遍的な個体性=「このもの性」が備わっていると考えたのである。
つまり、ソクラテスという個人には、〝人間一般〟という普遍的な概念と、他の個人とは違うソクラテス独自の「このもの性」とが備わっているということだ。
そして、「このもの性」は、知性によって把握できるとした。

ドゥンス・スコトゥスは、こうした性質を想定することにより、個物そのものを哲学の対象に含み込んだ。
その結果、その後の哲学は、世界に存在するさまざまな個物に関心を寄せるようになったのである。

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