デカルト(Descartes):神の存在証明– 西洋哲学史と倫理学のキホン(59) –

方法的懐疑によって絶対確実な〝思惟する存在としての自己〟を見出したデカルトは、次に、この自己を起点に、不確実だとしていったんは〝捨て去った〟世界を再構成しようとする。
しかし、世界を再構成するには、疑いの余地が残る〝思いこみ〟ではない〝確実な知識〟が必要となる。
そして、〝確実な知識〟であるためには、〝確実な根拠〟によって保証されなければならない。
つまり、デカルトは、方法的懐疑においては、知覚や内的感覚はもちろん、数学的な真理であっても、神によって欺かれている可能性があるかぎり、それらは不確実だとしたが、絶対確実な思惟する自己が見出された今、その自己にとって〝はっきり、くまなく〟=「明晰判明」(めいせきはんめい)に知ることができ、しかもその「明晰判明」さを保証する根拠があれば、その知識は確実だと考えたのである。
そのためにデカルトが『省察』のなかで行なったのが、「神の存在証明」であった。

われわれはさまざまな観念を持っているが、そうした観念のなかには神という観念がある。
その神は〝無限な存在〟であるが、有限から無限は生じないのであるから、有限な存在である人間から〝無限な存在〟という観念が生じることはない。
とすると、神という観念は、人間以外のところから生じたという他はない。
つまり、神が存在するからこそ、〝無限な存在〟である神という観念が生じたのである。

一方、われわれのなかに生じる観念には、必ずその原因がある。
当然、神という観念にも原因がある。
神は〝完全な存在〟だともされているが、この観念は不完全なものや無から生じたものではない。
というのも、原因のなかには結果(観念)よりも多くの(少なくとも同じ程度の)実在性や完全性が含まれていなければならないが、もしも結果(観念)のほうが原因よりも多くの実在性や完全性を含むとすると、結果(観念)のなかに含まれる実在性や完全性の一部は無から生じたことになり、これは〝無からは何も生じない〟という明晰判明な理解に反するからである。
ということは、完全な存在という神の観念は、不完全な存在である人間から生じたのではない。
つまり、この観念は、完全な存在である神自身によって、不完全な存在であるわれわれ人間に生まれつき与えられた「生得観念」なのである。

さらに、デカルトは続ける。
神が〝完全な存在〟という本質を持つならば、そこには〝現に存在する〟という性質が属している。
これは、三角形の観念に、内角の和は2直角であるという性質が不可分に属しているのと同じである。
よって、〝完全な存在〟である神において本質と存在は不可分なのであるから、神は現実に存在するのである。(※1)

(※1)この〝第3の神の存在証明〟は、のちに「神の存在論的証明」と呼ばれるようになる。

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